官兵衛の里・西脇市

黒田官兵衛と西脇

黒田官兵衛を西脇市(多可郡黒田村)生まれとする史料

西脇市が「官兵衛ゆかりの里」であることを示す史料について紹介します。
地元には、下記で紹介するほかにもさまざまな伝承や資料が残っています。

播磨古事

1784(天明4)年に官兵衛の父・職隆(もとたか)の墓所発見と廟所の建設、官兵衛の祖父・重隆(しげたか)の廟所整備などのため、黒田家が統治した九州・福岡藩が行った調査記録です。 播磨における黒田氏に係る調査や伝承をまとめたもので、1829(文政12)年に著されており、現在は福岡市博物館に所蔵されています。
その中には、次のような記述があります。

小寺官兵衛祐隆(孝隆[よしたか]、後の黒田官兵衛)は、播磨国多可郡黒田村の産なり。
その村名にちなんで、後に黒田氏に改めて、姫路城を相続して居城する。

とあります。 また、1784(天明4)年11月に福岡藩士が多可郡黒田村を調査に訪れ、

多田の古城(黒田村にあった城館)は、筑前国主の御先祖の城跡。
多田の城が攻められたときに、姫路へ脱出した若君が後の黒田家の太祖(官兵衛)である。

などと、当時の黒田村の伝承が、村の見取図とともに記録されています。

播磨の諸記録によれば、孝隆(官兵衛)公は、(小寺)美濃守職隆公の猶子(養子)と書いている。 また、姫路の心光寺にある長政公が奉納した3対の位牌が、孝隆公、重隆公、松誉禅尼であることや、孝隆公の母の名前は於松、あるいは松の前という黒田村の伝承があることから、孝隆公の父は重隆公で、(小寺)職隆公の猶子となったことが考えられるが、福岡藩黒田家には、このような記録や言い伝えもないことから、今後調査する必要がある。

と記しています。 すなわち、官兵衛の父は、職隆ではなく、祖父と言われている重隆が父で、職隆は小寺氏に属する人物であって、重隆の子として産まれた官兵衛は、小寺職隆の猶子となったのではないか、という疑問を述べています。

荘厳寺本黒田家略系図

荘厳寺本黒田家略系図

江戸時代の1809(文化6)年頃に、西脇市内にある黒田氏と姻戚関係にあると伝わる家の子孫が奉納したものです。 室町時代に播磨守護であった赤松氏から派生した黒田氏の発祥から滅亡までの歴代を記したもので、荘厳寺で大切に保管されており、黒田氏・黒田官兵衛の西脇市出自説の根拠となっています。
この系図では、次のように記されています。

  • 黒田氏は播磨守護・赤松円心(則村)の弟・円光を祖とし、その息子・七郎重光が黒田城に拠って「黒田」姓を名のったことが始まりとされています。
  • 初代・重光の子孫が、代々この地にあった黒田城の城主を継ぎ、八代・重隆の子として産まれた孝隆官兵衛尉(黒田官兵衛)が小寺職隆の猶子(養子)となって、姫路城を守ったとされています。
  • 官兵衛の兄・治隆(はるたか)左衛門尉が黒田城主を継ぎましたが、近隣からの攻撃を受けて落城、宗家は断絶しました。
  • また、通説では、官兵衛の母は、黒田職隆の妻である明石氏の娘ですが、この系図では、黒田重隆(通説では祖父)の妻となった比延山城主・比延氏の娘と記しています。 比延山城は、黒田城の南、現在の西脇市比延町にあった山城で、黒田氏と比延氏との間には代々婚姻関係があったとされており、この家系図を荘厳寺に奉納したのも比延氏末裔を名乗る一族です。

※PDFファイルをご覧いただくには Adobe Reader が必要です。 お持ちでない方はダウンロードしてご覧ください。

黒田官兵衛と西脇のホームへ

官兵衛の里・西脇市ホームへ このページのトップへ