白雉年間(650~654年)に法道仙人が開基したと伝わる真言宗の古刹で、紅葉の名所として知られています。 江戸時代前期に建立された木造の多宝塔は、兵庫県指定の文化財となっています。
2011(平成23)年に公表された黒田氏発生から滅亡までの歴代が記された「荘厳寺本黒田家略系図」を所蔵しており、持仏堂でその複製を公開・展示しています。
公開時間 | 10時~16時 ※荒天時・不在時は除きます。 ※拝観料無料、駐車場あり |
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さらに詳しく | 荘厳寺のホームページ 西脇市観光物産協会HPの紹介ページ |
中世・戦国時代の山城で、黒田氏代々の居城と伝わっています。 現在稲荷神社がある比高約40mの半独立山上に城があったと考えられますが、全体の城郭は不明で、帯曲輪・竪堀・堀底道とも見える不明確な地形が遺構として見られます。
また、山頂は二・三段の平坦地となっていますが、神社境内の削平のため、曲輪跡であるかは不明です。 さらに、東へ続く尾根上約500m先の字城山(標高246m)の尾根上には、土橋状遺構があり、周辺には曲輪削平途中ともみえる地形がありますが、よくわからないのが実態です。
「黒田庄町史」には、宗家を継いだ官兵衛の兄・治隆は、加古川対岸の石原城主・石原掃部助と丹波の赤井氏の連合軍による攻撃を受け没したため、当地の黒田氏は断絶したと記されています。
黒田城の山下にあった城主居館と家臣団の屋敷群で、黒田城とは館と詰城の関係にあり、両者の間は約600mの距離があります。 「播磨鑑」では、多田構居と記された平地城館で、加古川を望む段丘端に築かれており、付近は「構江(かまい)」と呼ばれています。
1995(平成7)年に住宅建設にともなって一部の発掘調査が行われ、堀跡や建物跡が検出されています。 市営黒田鉄筋住宅前に案内看板があります。
多田城が攻められた際、家老が幼い官兵衛と母を加古川を渡って逃がしましたが、母は増水した川で溺死、官兵衛は姫路へ逃れたという伝承があります。 母の名が於松(おまつ)であったことから、この場所を「松ヶ瀬」といい、現在も小字名として残っています。 新中橋から望むことができます。
「荘厳寺本黒田家略系図」では、室町時代に播磨で勢力を伸ばした赤松円心の弟・円光の子である重光が、丹波との国境にある黒田城に移り、父母のために円光寺を創建したとの記載があります。 彼が黒田七郎重光と名のり黒田家初代となります。 当地での黒田氏滅亡とともに廃寺となったようですが、明確な場所はわかりません。 黒田村では、江戸時代までその所在地の伝承がありました。
兵庫県指定文化財となっている大規模な茅葺き拝殿は、1591(天正19)年に改築されています。 三木合戦の際、羽柴秀吉が戦勝祈願成就のために臣下の黒田官兵衛が提供した奉納金で改築されたと伝えられています。 また、戦勝祈願のために灯明田を寄進したとも伝えられています。 毎年10月には例祭が開催され、4台の屋台が集結します。
さらに詳しく | 西脇市観光物産協会HPの紹介ページ |
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羽柴秀吉が三木城を攻めた時に、大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣をとり、この石に腰かけて采配を行い、兵主神社に戦勝を祈願して灯明田を寄進したという伝承があります。 黒田庄町岡の極楽寺の境内にあり、由来を説明した石碑が建てられています。
標高287mの比延山の山頂から尾根筋にかけての自然地形を利用した山城です。 築城年代が定かではありませんが、応永年間(1394~1427年)頃と考えられ、播磨守護・赤松氏の子孫の本郷氏が居城し、後に比延氏を名乗るようになりました。
「荘厳寺本黒田家略系図」では、官兵衛の母(黒田家八代・重隆の妻)は、比延山城主・比延常範の娘となっており、黒田氏と比延氏との間には代々婚姻関係があったとされています。 比延山城の山麓には、城主屋敷を中心に家臣や商人の家もあってにぎわったようですが、江戸時代に入る頃には廃城となりました。